中央アジア、キルギスのマナス空港。ふたり揃ってセキュリティチェックを受けている時、X線のモニター画面を見ている係官から「メダルを持っているか?」と訊かれた。彼は右手の中指と親指で丸い輪の形を作っている。お~よく判ったね~という感じで「あぁ、持ってますよ!」と胸を張って答え、ザックから自慢げにメダルを取り出す我々。なんと、第2回キルギス国際マラソンにて、夫婦そろって年代別3位に入賞してきました!
■シルクロードの国キルギス
今年のロシアはGWが5月9-12日にもう一度あり、この後半の休みを使ってキルギスへ。旧ソ連圏だけれど、人も食べ物も日本に近い国で、とても過ごしやすいところです。元々は同じ民族で、肉が好きだった人が西へ向かいキルギスを創り、魚が好きだった人が東へ向かい日本を創った、そんな言い伝えがあるそうです。そのキルギスにある“中央アジアの真珠”といわれ現在ロシアのバイカル湖に次ぐ透明度を誇るイシク・クル湖は、天山山脈の北に位置する標高1600mの高地。
そんな場所で走るフルマラソンですが、澤姐は心拍に負荷かけるトレはしておらず(3-4月は鎖骨亜脱臼もあり)、1600mあたりの標高が実は一番苦手な高さ。バスを降りた瞬間から息切れ、レースが思いやられる状態。
一方、YAJも休みになると近頃気が緩むのか、仕事の疲れがドッと出て、咽喉がイガイガする風邪の前兆が。
プロポリスや葛根湯で快癒に努めるけど、移動疲れ、旧ソ連式ベッドでの睡眠不足で症状は悪化の一途。朝起きてみて、これ以上咽喉が痛かったら勇気をもってDNSかというくらいの体調で乗り込んだ現地イシク・クル湖。モスクワから空路4時間で首都ビシュケクへ、そこからシルクロードの遺跡を訪ねつつ280㎞のバスの旅での現地入りでした。
今回は、バンバンクラブのメンバーのまっちさんが2年前にJICAのシニアボランティアとしてキルギスへ赴任、視覚障がい者支援の目的ではじめたいくつかの試みのひとつ「キルギス国際シルクロードマラソン」に参加すること、それに加え現地の視覚障がい者や地元のランナーとの交流などが目的。日本からのツアー参加者ともども、寄付Tシャツや中古ランシューなどを持ち込み、到着初日は地元の高校生のミニ駅伝大会の運営お手伝い等もスケジュールとして組まれていました(で、よせばいいのに、JICAチームに1名欠員が出たのでYAJ助っ人参戦。全力で走り切り、終わったあとに空気の薄さから呼吸困難、咳込み止まらず・涙)。
前夜祭では在キルギス日本大使館から小池大使も臨席され、盛大に日本=キルギスの友好を讃えての歓迎会が執り行われ、キルギス人による大江戸太鼓の演奏などを聴く。
レース前のカーボローディングに最適な麺類があるあたりもさすが中央アジア。本来、手で直接食べることから“五本の指”を意味する“ベシバルマック”というウドンに似た麺をいただき翌日に備えました。
宿泊地は旧ソ連時代のサナトリウム(療養所)。かつて宇宙飛行士が任務遂行後のリハビリにも使ったという場所で、宿泊棟、レセプション会場、プールや医療施設等が広い敷地にゆったりと配置され、南側には天山山脈を望む湖に面したビーチが広がっている等、夏はキルギスの一大避暑地として賑わう景勝地だそうです。
迎えたレース当日、午後少し降雨があるとのことだが概ね晴天。気温は15℃のまずまずのマラソン日和。フルの他ハーフ、10㎞、5㎞の各カテゴリーと共に定刻9:00にスタート!
(澤姐)前日は今一つよく眠れてないし、脱臼の肩は腕にしびれが残っていて何とも嫌な痛みがあるしで、「無理せんとこ」の完走目標でスタート。走り出すとやっぱり苦しい。でも、苦しいのは息だけで、それが身体には影響を及ぼさないなんて思っていたけれど、大きな間違いだった。肺も身体もどんどん辛くなってくる。
(YAJ)風邪は峠を越した感ありで、出走することに。スタート直後併走するまっちさんに「息、しんどいっすね~、これ以上、上げられないっすね」なんて言いながらキロ5で走る。少し行って呼吸が楽になってきても、病み上がりだし、今日はキロ5死守で!と自分に言い聞かせて進む。
コースの95%が東西交易のシルクロードというなんともロマンティックな道ではあるが、微妙なUp Downが絶えず続き、けっこうタフ。でも同コースを5キロ、10キロ、ハーフ、フルのランナーが走っていて、短い距離のカテゴリーは次々と折り返してきて、たくさんの選手に会えるのでけっこう飽きない。キルギス人はとても温かくて、トップ選手であってもエールを返してくれるし、皆お互いに応援し合える。ただし、ハーフの選手が折り返してしまうと、コース上に居るのはフルの選手だけになり、かなり寂しい一人旅となる。
(澤姐)走り込みが足りてないのもあるけれど、15キロ程度ですでに心折れ始め(今回はポッキー程度の軽さ)。息の苦しさも手伝ってほとんどウルトラやってるみたいな感じになってきた。
(YAJ)キロ5を少し下回るキロ4’50”~55”くらいの若者を捉えペーサーにして進む。折り返して併走したときに「時間は?」と訊いてきたので気づいたが、彼は時計をしていなかった(なのに素晴らしいペース感覚だったなぁ)。「1時間44分!」と答えて、そこから少しこちらがペースを上げた。付いてはこれないようだ。
ペースを上げた理由は、折り返しで数えたところ13位に付けていたこと、ペーサーの彼を含めすでに足が終わってそうなランナーが2、3人いたこと。これならもう少し順位が上げられそうと思ったから。ペーサーの若者を振り切り12位、その後25kmまでに完全にペース配分間違いの2人を抜き10位に順位を上げた。
■Make it to the Very End !!
イシク・クル湖の北岸に沿って東西に走るコースは折り返して西へ向かう。左手の遥か彼方には冠雪をいただく7000m級の天山山脈が。かつては三蔵法師があの山並みを越えてきて、このイシク・クル湖畔で地元の王に謁見しているとか。このコースの先にシルクロードの南ルートと北ルートの分岐点があり、さらにその先には“天竺”(ガンダーラ)が!? ゴールに向けてGO West!
(YAJ)前半キロ5を死守してきたので、後半多少は上げられると思っていたけど、病み上がりの体に高地のUp Downの負荷が徐々に襲いかかってきた。往路のランナーにエールを送りながら、なんとかモチべを保ちつつ走る。30km手前でようやく9位が見えてきた。相手はときどき走っては歩きの繰り返しで、粘って1㎞ほど逃げられたが、ついに立ち止まりストレッチを始めたところで追いつきかわすことが出来た。オリーブ色の布でハチマキをした、きっと地元キルギスの若者だろう。エールを送ろうと「ナイスラン、頑張れ!」と声を掛けたが咽喉が腫れ上がって、かすれた空気の擦過音が漏れただけだった。
(澤姐)25kmを過ぎたあたりから、キルギス人の男の子がぴったりとついてくる。こちらがエイドで止まると彼も止まるし、走ると追いかけてくる。なんだかんだと話しかけられ鬱陶しいなと思ったけれど、どうやっても振りきれないし、足も疲れてきたのでここはロシア語の勉強時間と諦めて、歩きながら彼と話をすることにした。外国人にとても興味があるという彼は、日本の事を聞きたがり、自分の事もいろいろ話してくれた。私の分かる範囲のロシア語をフル動員しても言いたいことの半分も話せなかったけれど、なかなか面白い時間だった。
(YAJ)一桁順位を手に入れたけど、ここで安堵してはと思い8位を追う。最終的には先行ランナーの姿は1㎞先まで見通せる直線の向こうに見つけることさえ出来なかったけど、この頑張りが奏功。ゴール手前1㎞ほどで、もうバテバテになっていたところ、30㎞過ぎで振り切ったハチマキの若者がラストスパートで迫ってきていた。気を抜いていたら40㎞手前で差されていたに違いない。最後に競り合ったら彼の末脚のほうが速かったろう。それくらい見る見る追いついてくるのが見てとれる。負けてなるかとこちらもラストスパート。ギリギリ200mくらいの差で逃げ切った。
(澤姐)きっかり1時間歩き、最後の5キロ。「私は走るけれど、どうする?」と聞くと「僕も」と。とは言ったものの足が痛いらしくついてこられなかった。ちょっと迷ったけれど、そのままゴールに向かって走り続けた。
前を行く日本人女子(今回でフル990回目の完走を迎える有名ランナー)は捉えられなかったけれど、なんとかフィニッシュ。
ところで、990回目のフル完走を果たした日本女性、ゴール後は地元メディアや関係者の猛烈取材にあっていた。聞くところによると、キルギスでは一生の内にフルを3回以上走ると死んでしまうと学校で教えられているそうで、先生やお医者様から質問攻めにあっていたとか。今後、地元の学校では生徒になんと言って指導するのか気になる。
■まさかの表彰式
ゴール後、二人ともホテルに帰り、ひと風呂浴びて、夕刻からの表彰式に赴いた。前半YAJがペーサーにした若者も来ていて「順位はどうだった?」と訊いてきた。「多分、9位だと思う」と答えると「僕はダメだった、あの後スピードが落ちて順位も20位くらいまで落とした」と。それでもゴールタイムは10分ちょっとしか離れてなかったようだ。
澤姐も後半併走してくれた男の子と再会。ありがとうと併走の礼を言い記念撮影。
そして表彰式では、まさかの夫婦揃って年代別3位入賞!“国際”の付くレースでのお立ち台は人生これが最初で最後でしょう(画像↓)。
当日夜の完走慰労会では、各カテゴリーの入賞者たちと歓談するなど楽しいひと時を過ごすことも出来た。モスクワ国際マラソンを何度か制したことがあり、ソ連時代には “スポーツチャンピオン”の称号を授かったというカザフスタンからのランナー(御歳67歳!)とも言葉を交わす。かつてソ連の長距離陸上界を支えていた選手の中にはこうした高地山岳国家(今は別の国)の出身者もいたんだろうなぁと感慨深い。
再び民族音楽、舞踏の披露、キルギス料理(あっという間に無くなっていた!)での歓待を受け、楽しいレース後の夜は更けていったのでした。
さて、冒頭の帰路の空港セキュリティチェックでの話…。
鼻息荒く、自慢げにメダルを見せびらかしてみたものの、後から冷静に考えると、あれはきっと「Металл(メタール=金属)持ってるか?(こんな丸いの)」との質問を「 Медаль(メダーリ)持ってるか?」と聞き間違えたのでしょう(笑)。でもまぁ金属探知機のほうにいる若い係官が、着ていた参加賞Tシャツを見てか「彼らはмарафонец(マラフォーネッツ=マラソンランナー)だよ」と助け舟を出してくれていたから、まんざら的外れの回答でもなかったということにしておきましょう。
記憶にも記録にも残る、キルギスマラソンでした! (完)